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空の彼方にに届け、誕生日プレゼント [つぶやき]

母さん、誕生日おめでとう。69歳になりましたね、私には想像もつかないけれど、きっと素敵なおばあちゃんになっている事でしょう。天皇誕生日だから世間は休日です。天国にも祭日ってあるのですか?死んだ人は歳を取らないと言うけれど、私には貴方への記憶が殆どないから分かりません。雪のように白い肌で産まれたから「雪子」と名付けたとおばあちゃんが言っていました。そのおばあちゃんも随分昔亡くなりましたが、今一緒に暮らしているのでしょうか。28年の間、大変な苦労をして来たのだと思います。家を出て行ったのも父が原因だった。その父でさえ30年前に他界。貴方を苦しめた病気や差別を思うと、薬を飲んでしまった気持ちも分かる気がします。死ぬつもりはなかったのでしょ?ただ苦しみから抜け出したかったんですよね。僕の歌は届かなかったけれど、貴方の歌はちゃんと覚えています。私に出来る事は詩や小説を書くことくらいですが「届かなかった僕の歌」にしっかり貴方は生きています。だからまだ僕は貴方にさよならは言いません。身体ははなくとも心に刻まれていれば生きていることに変わりはないのですから。


免許更新、うん?自分の頭も更新したら? [つぶやき]

免許の更新に行って来た。場所は一番近くの江東試験場。無事故無違反なのでゴールド、講習30分。ただし、もう2年ハンドルを握っていない。薬を飲んでいる関係で握れる訳がない。ペーパードライバー状態である。車が走る凶器と言われて久しいが、交通事故は絶えず起きている。悲惨な死亡事故も多いが、車が凶器であり、いつ自分が加害者になるかも知れないという気持ちを常に持ち、思いやりのあるハンドル操作をして欲しい。ハンドルを持つ手は貴方の心をそのまま反映する。私の叔父「竹男」は母の後を追うように中学卒業後直ぐに福島へ就職した。16歳だった。朝仕事へ出かける途中交通事故に会い、亡くなった。叔父さんを跳ねたのは50ccのバイク、あの月光仮面が乗っていたスーパーカブ。あんな小さなバイクなのに、打ち所が悪かったのであろう、即死だったようである。自転車であろと車であろうと動かしているのは人間。車に頼った生活の始まりが、社会環境を大きく変えた。歩く事を忘れて便利な物にすがる。その結果ダイエット・・・。自分のおつむの更新も忘れずに。


最恐心霊写真の主は叔母さんだった。 [つぶやき]

昨年10月父の30回目の墓参りに行った時に写した写真。この日は朝から土砂降りの雨で東名高速も速度制限をしていた為、かなり時間がかかった。この雨ではまともに墓参りなど出来ないだろうと思っていた。藤枝に着いたのはもう午後1時を回っていた。雨は相変わらず激しい。コンビにで弁当を買い、車の中で家内と息子3人で味気ない昼食を済ませる。いい加減に止んで欲しいと心で呟きながら寺へと向かった。すると雨が突然小降りになり始め、寺に到着した頃は止んでしまった。車から降りた時は一滴も落ちて来ない。空には秋雨前線がどんよりと立ちこめている。さあ今のうちに済ませようと墓参りと何時もの恒例の記念撮影。そして車にのった途端雨が激しく降り始めた。不思議な気分であったがその日は一日不思議な現象が続いていた。さて、もうお分かり頂けたと思うが、私の右肩に注目。はっきりと写し出された手。私の肩をしっかり掴んでいる。鑑定によるとどうも若い女性らしい。それもかなり昔に亡くなられている先祖の霊だと言う。心当たりがあった。23歳で亡くなった叔母さんがいて子供の頃とてもよく可愛がってくれた綺麗な女性。鑑定士曰く、これは非常に貴方を心配して守ってくれている守護霊なので大切にしなさいと言われた。この写真は非常に強いエネルギーを放っているので見た人にも良い事が訪れるかも知れないと言っていた。


薬と共に生きる日々 [つぶやき]

綺麗に整理された薬箱を息子が作ってくれた。薬を飲み忘れないようにと心配してくれている。普段は少しも言う事を聞かず反抗ばかりしている小3の息子がある日突然「パパはいこれにいれとけ」と私によこした。表面上では分からなかった息子の愛情に感激した。心臓の薬はワーファリン、ジゴシン、ペルサンチン、ワソラン、ラシックス。うつ病薬はトレドミン、パキシル、ロヒプノール、マイスリー。これらを毎日飲む。この中で絶対に忘れてならない薬が「ワーファリン」この薬心臓が悪い人以外でも飲んでいる方いるのではないだろうか。血栓を防ぐ薬であるが人によって効き具合を調節する必要があり厄介な薬。一ヶ月に一度血液検査をして一番よい状態を保っているか調べなくてはならない。もし日常で鼻血や歯茎の出血、血尿などあれば注意が必要。逆に効き具合が悪いと脳梗塞を起こす。どちらにしても命がかかっている。しかし人間の心理は上手く出来ていてすんなり順応してくれる。このような生活をしているのは私だけではない、世界中に大勢いるだろう。それを考えれば医学の進歩によって生かされている、或いは人々達によって救われている自分を発見するのだ。病気になって初めて分かる世界があった。


刑務所でパンを焼く [つぶやき]

私が子供の頃はコッペパン、ジャムパン、メロンパン位の物だったが、今では様々なパンがあってどれも美味しそうで全部味見して見たくなるほどだ。パン屋さんも工夫を凝らして独自のパンを焼く。そう言えば父が府中の刑務所に服役中、パンを焼く仕事をしていた。パンをどんな風に焼くのか話してくれたものだ。折角パンを焼く技術を身に着けたのだから出所後パン工場にでも勤めればいいものをと思うが世間は冷たい。務所帰りの人間はそうそう仕事にあり付けない。元々仕事嫌いのやくざ者だった父だけに仕事の事は眼中になく毎日酒を浴び飲んだくれていた。パンを見ると時々父の事を思い出すが父のくれた葉書にパンを私に食べさせたいと言う事が書いてあった。結局それは果たせずパンどころか飯もろくに食べさせて貰えなかったが、遠足の時父が作ってくれた大きな丸いオニギリの味は今でも忘れない。どんなご馳走でも愛情がこもっていない料理は旨いとは言えない。見た目だけ綺麗でも作った人の気持ちがやはり一番大事なんだろう。


見分けが付かない普通の人が変質者だったりする昨今 [つぶやき]

私が子どもの頃はあちこちに変な人がいた。それはそれで子ども心に面白がって遊んでいた。藤枝の町にも結構いて話題にしていたものである。見れば直ぐ変人と分かりそれなりに距離を置いていたが、当の本人は自分を変人だと思っていなかっただろう。病気だったこともあり、こちらが勝ってに変人扱いしていた部分もあった。近頃その区別が全く付かない。普通?に見えても頭の中が異常だったりする。その人の頭の中までは見る事が出来ない。ただ一つだけ言える事がある。「目」は嘘を付かない。これは昔から変わっていない。その人の本質を見抜くには眼をみれば大体分かる。子どもにはその様な洞察力がないので防ぎようがない。親がとにかく子に言い聞かせるしかないのだが、間違った教え方をしてはいけない。子どもの可能性を極端に狭めてしまうからだ。地区の組合、警察などが協力してパトロールを強化するしかないだろう。「火の用心カチカチ」と昔回っていたように。


初めて見た刺青 [つぶやき]

私の父は極道だった。前科4犯、4回刑務所暮らしを経験している。「初めての旅は府中刑務所だった」の記事を見てもらえれば分かると思う。山口組系の暴力団だったと思う。初めて極道の刺青を見たのは小4の時、勿論父も刺青をしていたが、それほど派手ではなかったので目立たなかった。山口組の幹部ともなるとやはり違う。と言うより極道にはどうしても見えなかった。ゴルゴ13のデューク東郷をイメージして欲しい。そんな感じの人が父の所に尋ねて来た事がある。紳士的で礼儀正しくとにかくかっこよかった。自動販売機の話をしていたようだ。1965年頃なので当時そんな便利なものはない。家の前に置いて欲しいというような会話だった。家にはやくざ者が終始出入りしていた。父が組長ではないのだが面度見がよかったので自然と集まって来るのだ。十数人が集まると決まって博打が始まる。腕まくりをしたその人の腕に彫られていた美しい絵に見とれてしまった。現代の若者はお洒落でタトゥーを入れているが極道のそれは見るものを圧倒する迫力がある。極道の世界も今では管理社会になり普通のサラリーマンと同じになってしまった。任侠の世界はもう見えない。


初めての旅は府中刑務所だった [つぶやき]

私が初めて東京に行ったのは小学4年生の時だった。その頃はまだ新幹線も開通していなかったので伯父さんに連れられて東海道線の長い汽車の旅を経験した。行き先は東京の郊外にある府中刑務所。父が服役している場所であった。日時や曜日までは思い出せないが前日に藤枝を出発し、東京に着いてから地下鉄を幾つも乗り継いだ記憶がある。こんな暗い所を電車が走っているなんてと驚いていた。東京には三郎という祖父の兄弟が住んでいるらしく伯父さんはその人の家を探し回っていたようだったが結局見つからずもう夜も10時を過ぎていたのでそこら辺で見つけたホテルに泊まった(今思うとラブホテルだったのかも知れない)。ふんわりしたベッドの感触やバスルームに綺麗な花びらが浮いていたのを思い出す。家で寝る石のように固い薄っぺらな布団とは大違いだった。都心から都下にある府中刑務所まではたぶん京王線で行ったのではないだろうか。その頃京王線が存在していればの話ではあるが。府中と言えば競馬で有名なところである。府中に刑務所がある事を知っている人はどれだけいるだろう。父の出所を迎えに行くのはこれが二回目なのである。実は4歳の頃祖母と一緒に静岡刑務所へ迎えに行った事があるが4歳と幼い記憶なのでおぼろげながらに憶えているだけであるが、二度目の出迎えは鮮明に脳裡に焼き付いている。子どもの目からみればそれは城門の聳え立つ高い塀に見えた。刑務所の入り口までは広い公園になっていて私はそこで一人待たされた。子どもは刑務所の中には入れないのである。一体何時間待っただろう。天気がよかったので公園に生い茂る樹木の下で飛び回る虫たちの姿を見つめながら時間が過ぎるのを待った。公園内を掃除している清掃員のおじさんが声を掛けて来たが内容は忘れてしまった。こんな所に小さな子どもがいる事自体が不思議でありよほどの事情があったのだろうと思ったかもしれない。随分長い時間を待たされてようやく大きな刑務所の門が開いた。私はそれをかなり離れた距離から見詰めていた。最初に叔父さんの姿が現われ、その後に父の姿が見えた。父は少し笑っていた。本当ならここでドラマのように父に向かって走り出し抱きつくシーンを思い起こすだろうがそんなテレビドラマのよな劇的な風景とは裏腹に父との会話は全くなかった。出所する時刑務所からわずかだが現金が支払われる。服役中は誰でも労働するわけだからそれに対する報酬がでるのであるが、それは本当にわずかな金額で刑務所から故郷に帰る交通費と飲食代程度のものだった。幼い私としては折角東京まで来たのだからせめて東京タワーに登ってみたかった。帰りは午後から雨になり静岡行きの汽車も満員で座る事が出来ず乗車口の所で立っていた。通り過ぎる雨に煙る薄暗い空に東京タワーが天を突き刺して立っていた。同じ乗車口に居た綺麗なお姉さんが私にパンをくれた。お腹の空いていた私にとっては有り難い思いがけないご馳走だった。パンに喰らいつく私を見て父が優しくお礼を言えよと言った。


本当のクリスマスツリーは心の中に育つ神様からの贈り物 [つぶやき]

12歳の時、初めてクリスマスツリーを見た。場所は天竜荘13病棟の食堂だった。天竜市内の高校生たちが病気見舞いという事で慰問に来てくれた。その時歌ってくれたのが「赤い鼻のトナカイ」だった。今でもその時の様子を覚えている。確か4,5人の男女がギターを弾きながら歌ってくれた。食堂に来られない重症患児たちは個室で聴いていただろうか?サンタクロースは人を選ばず誰にでも平等にプレゼントを置いて行く筈。どんな家にも必ずクリスマスは来るだろうし、子どもも大人も関係なく楽しむものである。キリストの誕生日だとかそういう宗教からは離れて、心に一本のクリスマスツリーを植えてみよう。小さな芽が出て、やがてそれは大きく育ち貴方の心を豊かにしてくれるだろう。そうしたらその種を一つずつみんなに分け与えて行こう。笑顔が待っている世界に手を繋いでみんなで行こうではないか。


子どもを守れない大人の無力さに溜息しか出ない [つぶやき]

幼い子どもが被害に合う悲惨な事件が相次いでいる。昭和36年に起こった「吉展ちゃん誘拐事件」を思い出した。泉谷しげるがこのドラマで役者デビューしたが、元々足に障害を持っているその姿は犯人像にピッタリだった。昔は金銭目的で誘拐される事件が多かったが、今はその様相は様変わりした。犯人は何れも金銭を要求しては来ない。では一体何が目的なのか?己の欲望のはけ口、ストレス発散それらが無抵抗の子どもに向けられている。この様な歪んだ社会を生み出したのは、我々大人である。その大人たちは子羊のような子どもを守ることが出来ない。こうなったら子どもにも武器を持たせるか?ジャックナイフ?剃刀?まず無理だろう。どんなにパトロールを強化した所でほんの僅かの隙に子どもは狙われるのである。何か大切なものが抜け落ちてしまった現代。それは「手作り」である。母親から教わった手作りの味。父親から教わったキャッチボール。何でもよいが、世の中便利になり過ぎた。その代償が悲惨な事件を産む結果となっている。犯罪の心理にはその背景に孤立した人間像が垣間見える。コミュニケーションが上手く取れない或いは方法が分からない。寂しい大人と呼べない子どもが増えているのである。


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