SSブログ

養護学校の中心で先生と呼ばれた

私の母校である天竜養護学校が今年で創立50周年を迎える。それにあたり、創立50周年記念誌を作るのであるが、私に詩の創作依頼があった。卒業生である私としては非常に有難い依頼だったので、心良く快諾し、新作として「我が母校」を書いた。そして天竜荘に関連した詩を数点送ったのである。そして先日教頭先生からお礼の電話があった。「神戸先生、この度は素晴らしい作品を送って頂きありがとうございます」いきなり「先生」と呼ばれて驚いた。私、いつから先生になったんだろう?人から先生と呼ばれて悪い気はしない、誰でも嬉しいだろうが、私はまだ先生と呼ばれるほどの者ではなくまだ発展途上の身。世の中に先生と呼ばれている人は星の数ほどあれど、本当の先生は少ない。私は尊敬できる人であれば職業、身分を問わず先生と呼ぶ。最近は先生の少なくなった学校も多いが、先生と呼ばれる以前の自分を振り返る必要と何故先生なのかを再認識する必要があるだろう。天竜養護学校は心に病を抱えている生徒が多いと言う。その生徒たちの励みになってくれればよいのだが。


nice!(2)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 2

コメント 3

yuichi-sato

TBありがとうございます。
はじめて、このブログを拝見します。
これから注意して拝見させていただきます。
by yuichi-sato (2005-12-05 21:31) 

はやし

はじめまして。トラバありがとうございました☆
私からすれば、酔いどれ天使さんは、すでに『先生』です。
会った事もないし、ここに来たのも初めてだけど、色々な事を深く考えている酔いどれ天使さんは、尊敬できる存在です。
そんな酔いどれ天使さんが書いた詩なら、きっと、生徒さんも元気になると思います♪
by はやし (2005-12-07 20:21) 

ユーリ

TB有難うございます。
障害者の社会参画は難しいのだと思います。
以前、あるNGOの活動を見学した時に痛感しました。
自分の小学校には養護学級があったのですが、養護学級の生徒達は、妙に優しくされたり苛められたり、とにかく特別扱いだったのを覚えています。
人間社会では、なぜか共存といったものが非常に難しいと思います。
全員日本人だけの村に黒人や白人が1人だけいれば特別扱いされます。
まぁそれは仕方の無い事なんでしょうけど、
その「違い」を認識した上での共存といったものが、なぜ難しいんでしょう。
自分は中学の頃、障害者に対して自分と同じ部分を共有し仲良くなりましょう的な事を習いました。
「ほら、あの子も皆と同じでしょ?」って感じ。
そういうのが、そもそもの間違いだと思います。
違いは認識した上で、それからの付き合いが重要なのではないでしょうか?
だから自分は「障害者だから特別に賞をあげる」といった考えは好きになれません。
そういった色眼鏡を外した教育者が増えていく事が望ましいのでしょうけど、世の中そうもいかないんでしょうね。
そんな中で、酔いどれ天使さんの活動は素晴らしいと思います。
ハンデが有るとか無いとか、そういうのを超越した創作という世界から養護学校の生徒達に接するのは本当に素晴らしいです。
by ユーリ (2005-12-08 00:05) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。